小学生の時に五島勉さんのカルマの法則を読んでショックを感じて以来「阿羅耶識」と言う言葉に自動的に反応するようになった。
それから、これに反応する為には天橋立の宮津にある「智恩寺」で見た「地獄の絵」が当時の小学生だった私に衝撃を与えたのだと思う。

そして、それからの私はノストラダムスが言う「別のもの」を探し始めた。
それが「別の生き方」であり「別の文明」だった。誰しもが疑わない生き方を疑い、今の大量消費社会を疑った。
いまも、「別のもの」が「世界の何処かに」もしくは「私の中に」のどこかにあると信じています。

さて、この本を一言で表すと

「私とは私なのか?」ということだろうか。
内容が実はいっぱい詰め込んであり、何が言いたいのかが少しわかりにくい。
なんども読めば判るのかも知れない。

川とは溝に流れている水だ。
例えば、加茂川とはどのぶ部分を加茂川というのか? 
水か? 岸辺か? どんなイメージをしているのか? 
みんな違うのだろうけど、その映像を示すと? 

私とは何だ? どこだ?
抜けた髪の毛は「私」なのか(笑 
私とは、どの部分なのか? 腕か? 脳なのか? 意識なのか?
総体として私なのか?

そもそも、言葉では定義できないのか? 言葉とは??
こんな、存在についていろいろと考えることになる。

さて、レバレッジメモだ。

P58「自分とは言葉の響きがあるだけ」
自分とは?自分を見つけた人はいないのだ!(笑
鏡で見た姿が自分? 自分の姿なので 自分のの「の」と言う部分で自分の所有ということで、これは自分ではない!

だから、自分というものは実は見つけられない。自分というものは実は無いのです。

P86「存在の真のあり様は、有るものでもなく、無いものでもない」

あるわけでなく、無いものでもない。
存在とはそんな性質である。
有るものがなくなるので人は不安になる。
しかし、元々は無いので、不安になりようがないというのが、世界の真実の姿である。

P107「我痴」
ガチと若者が言うが、自分に愚かだと言うことだろうか?(笑

我見 自分が有ると見ること
我慢 自分を自慢する
我愛 自分を愛しいと思うこと

これがガチで4つの煩悩です。(爆

P118「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」
対象である存在は観察者である人間がいるから存在している。

つまり、電信棒は私がいるから存在している。私が電信棒を触らなくても、電信棒は私に関与されて存在している。
実は私と電信棒という存在は一体の存在である。
更に言うと私と宇宙は一体の存在だと言うことだ。

P120「阿羅耶識は身体を作り出し、その身体を生理的・有機的に維持している。」
P122「真の健康とは深層心からすっきりと爽快になることです。」

実は心が身体を作り、病気を作っているのかも知れない。
毎日、善行を行い。他人に喜ばれてこそ、健康になるのではないか?
決して人を騙して利益を得ても、健康にも爽快にも幸福にもならない。

P148「すべての苦の原因は執着である」
存在しない自分 存在しないモノに執着し、なくなることを恐れて苦しんではいけない。
なくなるものだから、それでいいじゃないの?

そうか、だから釈尊は虎に食べられても良いと思えたのか・・・・
自分が無いのだから虎に食べられても困ることは無いわけか・・・
やっと、30年かかってわかったぞ!

P180「なりきり、なりきって生きる」「いま、ここに、唯だ生きる!」

過去を悲しまず、未来を憂いず、今、ここに、唯!生きる。
いま、この道をただ歩く。 いま、この仕事をただ進める。 いま、この本をただ読む。 いま、このブログを唯、書く!

これで良いのだ!

まとめ:
自分というものはあるように思えるが、実は無い。
無いということが判れば、後は自由自在だ。

夢と現実を脳は区別できないらしい。
なら、現実も夢も同じだ。

あるでも無く。無いでも無い。
だからこそ、自由自在だ。

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
横山 紘一
幻冬舎

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